私の本棚
清水ひろしが最近読んだ本をご紹介いたします。
『日本史 敗者の条件』 呉座勇一 著
『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』 福田ますみ 著
- 出版社:新潮文庫
ドキュメンタリー作品。「殺人教師」としてマスコミにも叩かれ、停職6か月の処分を受けた小学校教師。しかし、民事裁判を通して、全く事実に反する真相が明らかになる。
著者は次のように述べています。
子供は善、教師は悪という単純な二元論的に凝り固まった人権派弁護士、保護者の無理難題を拒否できない学校現場や教育委員会、軽い体罰でもすぐに騒いで教師を悪者にするマスコミ、弁護士の話を鵜吞みにして、かわいそうな被害者を救うヒロイズムに酔った精神科医。そして、クレーマーと化した保護者。結局、彼らが寄ってたかってこの教師を「史上最悪の殺人教師」にでっちあげたというのが真相だろう。バイアスのかかった一方的な情報が人々を思考停止に陥らせ、集団ヒステリーを煽った挙句、無辜の人間を血祭りに上げたのである。
その後、冤罪として教育委員会による教師の処分はすべて取り消された。
この事件から20年以上が経過をしたが、冤罪や、真偽不明な情報に騒ぐような状況は、個人がSNSで発信する時代になり、むしろその怖さは広がったと言えるのではないでしょうか。
福田ますみ『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』(新潮文庫刊)
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 三宅香帆 著
- 出版社:集英社新書
「そもそも本が読めない働き方が普通とされている社会って、おかしくない!?」
就職をしたことによって、好きな読書が出来なくなった生活に著者自身が疑問をもち、どうすれば「労働」と「文化」を両立出来るのか、日本の働き方について示しています。
読書とは、自分から遠く離れた文脈に触れること、と定義し、映画「花束みたいな恋をした」の主人公二人の生活を引用しながら、本を読むことは働くことのノイズになる、読書のノイズ性こそが90年代以降の労働と読書の関係であったと指摘しています。
しかし著者は、私たちはノイズ性を完全に除去した情報だけを生きるのは無理だ、と述べています。
だからこそ、働いていても本を読む余裕のある「半身で働く」ことが当たり前の社会をつくろうと提言しています。
日本に溢れている、「全身全霊」を信仰し、「無理して頑張った」を美談とする社会をやめ、仕事に限らず「半身こそ理想」だ、とみんなで声をあげよう、と訴えています。
読後、映画「花束みたいな恋をした」を鑑賞しました。
『人魚ひめ』文:末吉暁子 絵:三谷博美 / 『にんぎょひめ』文:曽野綾子 絵:いわさきちひろ
『人魚が逃げた』 青山美智子 著
『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか? 認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策』今井むつみ 著
- 出版社:日経BP
「人間はわかり合えないもの」であり、相手に「言えば伝わる」「話せばわかる」と私たちが考えていることは幻想に過ぎない。それは、①相手の言葉を理解する際のバックグラウンドにある「スキーマ」(認知、知識や思考の枠組み)がそれぞれ異なり、かつ、②認知能力はあやふやだからである、と著者は述べています。そして、このことを双方が理解しておくことが理想だと記しています。
そもそも、脳はすべてを正しく覚えておくことはできず、忘れるものであり、偏りも生じ、感情によって記憶もねじ曲がってもいきます。また、人間は意思決定の際、最初に感情で物事を判断し、その後、「論理的な理由」を後づけしているに過ぎず、意思決定を「直観」で行っています。
このように、人間は皆「信念バイアス」「認知バイアス」といった何らかのバイアスを持っていることを意識することが必要です。
*信念バイアス:「自分が「こうしよう」というものを、「他人にもそうさせよう」というもの
*認知バイアス:自分の考えや経験、自分の周囲の人の考えや経験という非常に狭いサークルである「自分の小さな世界」を「基準」として世界を見てしまう。
そのうえで、筆者は以下のように訴えています。
私たちは、AIには代替できない、人間にしかない能力を磨くことが求められており、それこそが、生きた知識、直観であり、学びとはこうした能力を磨いていくことだ、ということを忘れてはいけない。